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2014年9月のバックナンバー

始発の「混雑」

2014年9月29日

私が使っている横浜のJR戸塚駅の始発は、下りが5時5分、上りが5時9分。
日本全国に出かける私は、週に何回かはこのどちらかに乗ることになる。

最近気がつくのが、明らかに仕事に出かけるのではないと思われる服装の人たちで、席が埋まっていることである。
休日のレジャー客、ではない。平日の話だ。
朝も早くからお勤め御苦労様、というわけではないようだ。
ほとんどが初老の定年族、に見える。
デイパックを背負い、ヤッケにキャップを被る。
身軽な格好は、これからハイキングに行くような出で立ちだ。
大きな旅行カバンの人も皆無ではないが、多数は日帰りスタイルである。
こんな人たちが、さすがに勤めに行くにはまだ少し早いというこの時間帯の電車のシートに座っている。
勤め人が朝からぐったり寝入っているのに比べて、この人たちの方がガイドブックを見たり新聞を読んだりと元気そう。
スマホに見入ったり音楽を聴いているのではなく、活字世代であることにも気が付く。

「GS世代」がどんな日々を過ごしているかは、わたしにとって興味深いテーマだ。
だから自ら旅行会社の街歩きツアーの講師もかってでて、参加者の話も集めている。
戸塚駅始発利用者にも大変興味をそそられる。
そのうちまた報告できるかもしれない。

 

 

思い込みの危険

2014年9月22日

政党機関紙が他党のやることをすべて悪とし、自党のやることをすべて善としても、読者はあまり文句を言わないでしょう。
宗教新聞でもそれは同じこと。

これに対して一般のマスコミが、中立公正を売り物にしておきながら、実は一方的な見方で論じてしまうから問題が生じます。
一人ひとりの取材者や編集者には自分の考えがあります。
取材対象に対して中立公正な見方で接するなんて、まずあり得ません。
また自分の属する報道会社の考え方に反する記事内容では、取材してもボツになる可能性が大きいですし、方針に背く取材をしていれば、上司に睨まれると、サラリーマンジャーナリストなら考えます。

読売新聞でナベツネ批判記事は出ません。
NHKでも与党に不利な記事をあえてスクープしないのは、NHK予算審議や受信料値上げを意識してのことだということは職員にとって当たり前のことですし、家電ディスカウントがNHKのテレビニュースなどで取り上げられないのも、家電メーカーのテレビ販売データをもらって受信契約に結び付けてきた癒着の結果です。

今回の朝日報道の問題点は、まさにサラリーマンジャーナリストたちが、社の方針のベクトルを優先したことに落とし穴があったと考えます。
30年以上前の段階では、日本とアメリカの帝国主義に反対し、中国、北朝鮮礼賛は朝日新聞の報道の根底にありました。
震災以後、悪は東京電力、原発反対もしかり。
これに反対する特ダネなどあり得ないし、逆に会社の方針にあった方向で記事を書けば、まず採用されるのです。
記者たちが根底でそう考えていたからこそ稚拙な取材でも許されてしまったというのが、従軍慰安婦問題、吉田調書問題の本質ではないかと同業者としては思います。

功を焦り、思い込んで暴走した教条主義新聞の末路。
まるで共産党独裁国家の政党新聞的思い込み、決めつけの悪弊治らず、ということです。

オリンピックの国、ギリシャに学べ

2014年9月12日

2004年の今世紀初めてのオリンピックは近代五輪発祥の地、アテネでした。
日本選手団は大活躍、大いに盛り上がりました。
また日本製のデジタルカメラやムービーカメラが現地でブームとなり、液晶テレビもバカ売れ、関連ビジネスは日本の一人勝ちでした。
一方、オリンピックを誘致したギリシャが経済力に合わない過大投資でその後借金に苦しみ、2008年のリーマンショックでついに破綻、しかしEU内でそれが問題にならないように国家的粉飾を続けてきたことは、周知のとおりです。

かつて日本はまだ太平洋戦争の後の発展途上国ながらあえてオリンピックを開催し、それをその後の躍進の原動力としました。
そのビジネスモデルは世界の称賛を受け、その後ソウルや北京もそれに習おうとしました。

さて2020年のオリンピックは、過去の成功を再現することになるのか、それともギリシャの失敗を繰り返すことになるのか、私達は重要な岐路にたたされています。

大切なことは
日本にあと10年の猶予はなく、2020年のオリンピックまでに次の道筋をつけなければ、ギリシャ以上の危機に直面する可能性があるということです。

戦後のベビーブーム世代、「GS世代」はいま会社をほぼ全員がリタイアし、元気に老後を楽しんでいます。
アベノミクス効果で、リーマンショックで受けた資産の目減りがほぼ帳消しになり、時間とお金を自由に使っています。
しかし10年後この人たちは後期高齢者になります。
消費経済から一斉にリタイアします。
いくら元気とはいえ、さすがに75歳を過ぎると旅行や外出の機会は減り、自宅にいる時間が多くなり、車や衣料品の購入も激減します。もちろん胃袋も小さくなります。
人口減少も困りますが、消費経済人口の減少はもっと急激に、そして深刻に日本経済を直撃します。
だからこそ、そうなっても耐えられるような「ニュージャパンモデル」を構築しておかなければなりません。
そういう意味で オリンピックが開かれることは何より神風です。
これをただの「二週間の運動会」で終わらせてはなりません。

日本がギリシャにならないために、
いま我々には戦略が求められています。

いま西村晃の講演会は「あと6年、国とあなたの会社がやるべきこと」と題するテーマが大人気となっています。
まさにこのことを熱く語っています。

クルーズ日記⑦ ベニス 帰国

2014年9月10日

9日目  9月8日(月)  ヴェネチィア  晴れ22度

起床4時半。
昨夜のうちにトランクを出してあるので部屋の中の荷物はわずか。
パソコンを立ち上げるが、なんとドキュメンフォルダーが空となっていてビックリ。
日本に電話してあれこれやっているうちに、ついに隠されていたデータを見つけ出しほっとした。
時計を見るとあまり時間がない。朝食へ 山本夫妻と旅の思い出を語る。
8時に部屋を空ける。デッキに出てみるともうヴェネチィア運河だ。朝陽を浴びた街並みがうつくしい。

最初は長いように思えたクルーズも終わってみれば束の間にしか感じられない。今回は我々以外日本人ツアーはいなかった。
15人という人数は仲良くなれるという意味でも最高の規模だったのではないか。
3800人の中,日本人が夫婦二人でもやはり退屈だろう。下船手続きをおえ、荷物をピックアップして、水上バスでホテルダニエリへ。


0908_3.jpg  「ホテルダニエル」

0908_1.jpg ロビーにて記念撮影

 

ヴェネチィアの栄華を今日に伝えるダニエリは、世界で最も有名なホテルの1つ。その華やかな歴史は、ホテルの本館、「パラッツォダンドロ」が、貴族ダンドロ家の命により建設された14世紀にはじまる。

ヴェネチィア共和国時代、ダンドロ家は4名を統領として輩出。中でもエンリコ・ダンドロは、1204年にコンスタンティノープルを征服し金銀や大理石、ビザンチンの美術品の数々とともに帰還した英雄。その後、美術品の一部はパラッツォダンドロを飾る装飾品に取り入れられた。宮殿が完成した当時、その素晴らしいゴシック建築とラグーンを見渡す恵まれた立地から、「ヴェネチィアでもっとも高貴な宮殿」と称えられた。

1948年、サレルノ公国の王子が従者とともに滞在。訪れる貴族たちにふさわしい滞在先としての地位を確立した。1525年には宮殿で喜劇が上演され、マントヴァからの大使やイングランド国王の従兄弟などの名士たちが観劇したことが記録に残る。

それから数世紀が過ぎた1822年、ジョゼッペ・ダル・ニエルがこの宮殿の一部を借り受け、ホテルに改装。彼のニックネームをとって「ダニエリ」と名付けた。
彼は少しずつ宮殿の土地を買い集め、最終的に宮殿すべての所有権を手にした。1833年の冬、10号室でジョルジュ・サンドとアルフレッド・ミュッセの恋愛劇がスキャンダルになった。

1895年、ジェノヴェージ氏とカンピ・ポッツィ&C.がホテルの新しいオーナーとなる。新オーナーの下、莫大な費用をかけた改装により、電力を導入し、蒸気式ラジエーターとエレベーターを設置。最高級としての評判がさらに高まる。。当時、ホテルはリオ デルヴィンの向こう側にある、かつて税関室のあったカサノバ宮殿にも橋でつながっていた。

そして1906年、ジョゼッペ・ヴォルビ伯爵が名高いCIGA(Compagnia Italiana Grandi Alberghi)を開業し、ロイヤルホテルダニエリの所有権を取得した。1948年、最終的なホテルの構成を変更するための大改装を行い、パラッツォダンドロとパラッツォデレブリジオーニを隔てていた建物が取り壊され、現在のパラッツォダニエリエクセルシオールの元となったダニエリーノが新築された。
現在のスタイルは、高級ホテルの内装で名高い建築家ジャック・ガルシアにより2008年に改装されたもの。


ホテルに荷物を預けて各自思い思いにヴェネチィアの街に繰り出す。
私はロビーでネットがつながったので、たまっていたメールをさばく仕事に追われた。


佐々木さんご夫妻と金田さんとともに、ホテル4階のテラスレストランで地元の名物であるイカ墨スパゲッテイに舌鼓をうった。
その後部屋の準備ができたので荷物を置きに入る。
これぞクラシックホテルという部屋の内装。
年代物の絵画が4枚かけられ、屋根は高くシャンデリアがつるされている。床は歩くときしむ。
写真を撮り部屋の中をあれこれ見ているだけでも飽きなかった。

0908_2.jpg 豪華な内装

 

0908_4.jpg 部屋の中にも絵画が何枚も飾られている

 

その後ヴェネチィア美術館を見学、サン・マルコ寺院の中に入り、アイスクリームを食べながら裏道の土産物店をひやかし、リアルト橋まで。初日に雨に濡れていた橋も、快晴の今日は観光客でぎっしりだった。

 

夕方ホテルに戻り、オプショナルツアーのゴンドラとダニエリレストランディナーへ。


ホテルの前から3漕のゴンドラに分乗、私が乗る真ん中のゴンドラにアコーデオン奏者と歌い手の二人が乗る。特にアコーデオンおじさんがいかにも巨漢で船が沈むのではと心配になる。

大運河から橋をくぐると、路地を縫うような狭い運河に入ると安定し、そこで音楽に合わせテノールが響き渡り雰囲気は最高潮。
橋の上や、並行する道をゆく人まで魅了し拍手が上がった。
およそ30分、まるでテーマパークの中を行くかのようなヴェネチィアでしか体験できない素晴らしい経験ができた。

0908_5.jpg 運河にカンツォーネが響き渡る

 

夕闇の中にくっきりとうかぶ満月が美しく大運河を照らす。
ダニエリレストランでのディナーは残念ながらテラス席は満席で我々は室内となったが、最後の晩餐を堪能できた。
参加者にクルーズの寄港地でよかったと思うところを挙げてもらったところ、
一番はドブログニク、以下サントリーニ島、ミコノス島、アルベロベッロと続いた。
野菜のテリーヌ、パスタ、タイのムニエル、デザートを楽しみ部屋へ。

0908_6.jpg 満月が大運河を照らす

 

10日目   9月9日(火)  ヴェネチィアからチューリッヒ経由帰国  晴れ22度
11日目   10日(水)

3時起床。メールを各方面にうつ。
荷物整理、6時モーニングコール、6時45分からレストランへ。
水準の高いハムやフルーツ、そして何より日の出を見て朝焼けに煙るヴェネチィアの大運河を見下ろせたのはよかった。
水上タクシーでバスまで、15分で空港へ。
ヴェネチィア空港9時50分発、チューリッヒ乗継ぎ13時
およそ12時間で成田着。

0908_7.jpg 朝焼けのヴェネチィア

 

クルーズ日記⑥ 終日航海 ドゥブロヴニク

2014年9月10日

7日目  9月6日(土)   終日航海  セミナー③  晴れ32度

珍しくゆっくり起きた。日記と写真整理のあと
デッキ9 トゥリパーノ・ネッロで朝食、カップヌードルとオムレツ。
ジョギングコースで少し歩きながら写真を撮影する。
10時からセミナー③
早めにセットメニューのランチレストランへ。
ガットパルトは 船尾にある。景色を見ながらの語らいで楽しいランチとなる。
多くの人は有料のサウナを一日パスで利用して午後を過ごしたようだ。
19時から夕食はフォーマル・ガラのドレスコード。
食事の途中で音楽に合わせて全員がナプキンをぐるぐる頭上で回しながらリズムをとる。


そこにコック帽の一団が行進して入場してくる。陽気なセレモニーにレストラン中が沸いた。

0905_5.jpg サントリーニ島出港前の甲板

 

8日目  9月7日(日)  ドゥブロヴニク  晴れ27度

4時起床 日記写真整理。6時半朝食 昨夜は雨が降ったようだが もう晴れている。
ついに船旅は一日も傘をささないで済んだ。
クロアチアのドゥブロヴニクに8時接岸。
ドゥブロヴニクは、1991年位独立した。アドリア海沿岸のダルマチア最南部に位置する都市、1979年に世界遺産に登録された旧市街は「アドリア海の真珠」とも謳われる美しい町並みを誇る。
人口4万人、そのうち約28,000人はドゥブロヴニク市街に居住する。
0907_1.jpg 船から街をのぞむ

ドゥブロヴニクは海洋貿易によって栄えた都市で、中世のラグーサ共和国はアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネチィアなどと共に5つの
海洋共和国に数えられ、巧みな外交術と豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけてはとくに発展した。

0907_2.png.png 美しい街並み

1970年代、恒久的に戦争による破壊から守るために非武装化されたが、1991年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争でセルビア・モンテネグロ勢力によって7ヶ月間包囲(ドゥブロヴニク包囲)され砲撃により多大な損害をうけた。


ドゥブロヴニクはギリシャ人船員によってできた。
古代船は1日当たり45-50海里の航海をし、夜間は休息と停泊するための砂浜が必要で理想としては新鮮な水源が付近にあることだった。ドゥブロヴニクは2つを兼ね備えていた。
東ゴート王国崩壊後、町はビザンティン帝国保護国の都市国家として沿岸部のセルビア人などと交流していた。
十字軍の後、ラグーサはヴェネチア支配下にはいる(1205年-1358年)。1358年ハンガリー王国から独立、14世紀から1808年までラグーサは自由国として存続、15世紀から16世紀にかけては最盛期を迎えヴェネチィア共和国や他のイタリアの海洋都市国家がライバルだった。
15世紀にオスマン帝国がバルカン半島の内部へと進出してくるとその宗主権を認め、ヴェネチィアがオスマン帝国と度々戦争状態に入りその都度停滞したのとは対照的に、かつてヴェネチィアが独占的に果たしていた東西交易の中での役割をより確かなものとしていった。
巧みな外交術は交易を助け、ラグーサの商品は自由に海を行き交った。


0907_3.jpg.jpg 街の中

0907_4.jpg.jpg 城壁都市ドゥブロヴニク

 

オレンジ色で統一された屋根が並ぶ旧市街は、高く重厚な城壁に囲まれており、どこから見ても絵になる光景だが、過去には幾度も大きな被害を受けてきた。
最も甚大な被害を被ったのは1667年の大地震のときで、町の中心プラツァ通り沿いにある建物で残ったのはスポンザ宮殿のみ。それ以外はすべて瓦礫と化した。
1991年のユーゴスラヴィア連邦軍による攻撃でも「危機にさらされている世界遺産リスト」に載るほど町は破壊されたが、その後、精力的な修復がなされた。
2010年にはスルジ山のロープウェイも復旧して、現在は紛争の傷跡は町ではほぼ見られない。


昼過ぎに船に戻り、昼食後は プールサイドで読書。
夏の終わり、旅の終わりを楽しむ姿で甲板の寝椅子は満杯状態。

0907_5jpg.jpg プールサイドは満杯!


夕食までに トランクに荷物を詰める作業を始める。
午前一時までにトランク回収に出さなければならない。


ディナーはイタリアデー。
国旗にちなみ 白、赤、緑の色を服やアクササリーに入れてみな集まる。
ウェイターウェイトレスは3色の蝶ネクタイで登場。

メインディッシュのころからレストラン内では音楽に合わせてお客が輪を作って行進したり、ウェイターたちがパフォーマンスの踊りをしたりで大騒ぎ。イタリア船陽気な最後の晩餐の盛り上げ方だ。

0907_6.jpg.jpg イタリアデーのレストラン


さらに夜のショーでは、一週間同じ船の上で過ごしたクルーたちが歌やダンスなどを披露して乗船客との一体感を作り上げた。
楽しかった旅を印象付け、次につなげようとするうまい演出だと思った。

0907_7.jpg.jpg

 

ショーの後、さらに4D映画を見に行く。
座席が揺れ、風や水しぶきが飛んでくる体感型映画は楽しかった。
一週間ヴェネチィアから出てヴェネチィアに戻ってくるという、目的があってないような究極の「暇つぶし」であるクルーズ。
船そのものがテーマパークと呼べるエンターテイメント空間なのだ。


とくに日本では お年寄りの旅行というイメージがまだまだ強いが、
今回のヨーロッパクルーズを体験してみて、若い層も含めたレジャー創出の可能性を感じることができた。

クルーズ日記⑤  サントリーニ島

2014年9月10日

6日目  9月5(金)  サントリーニ島  セミナー②  クラブファシノーサ夕食  晴れ32度

 起床3時。日記など仕事して 6時から朝食 7時下船
今日は最も人気のある観光地、サントリーニ島。コルフ島を案内してくれたコサカイさんが岸壁で迎えてくれる。
サントリーニ島は、エーゲ海のキクラデス諸島南部に位置するギリシャ領の火山島。かつて大爆発を起こした火山が形成したカルデラ地形で、本島を含めた5つの島々の総称。もともとは円形の島が火山爆発で変形した。カルデラ湾を望む断崖の上に白壁の家々が密集する景観で知られる。

サントリーニ・カルデラ内では現在も活発な火山活動が続く。
「サントリーニ」の名は、13世紀にラテン帝国のもとでつけられた名で、ペリサの集落にある聖イレーナに献じられた教会に由来。
群島は、かつては一つの大きな島だったが、紀元前1628年頃、海底火山の爆発により、地中のマグマが噴き出してできた空洞状の陸地が陥没して、現在のような形状になった。
1956年、ギリシャの地震学者アンデ ロス・ガラノパウロスが、サントリーニ島こそアトランティスだとの新説をたてている。

0905_1.jpgサントリーニ イア

 

キクラデス諸島の中では、ミコノス島と並ぶ人気の観光地。主な特産品はレンズ豆。
「ファヴァ(ファバ)」という地元料理の重要な材料でもある。チェリートマトなどのトマト類、白ナス等のナスも特産。またワインの産地と
しても知られ、島にはワイナリーが多く、白ワインやデザートワインがおいしい。
風が強くブドウの木は、地面を這うように生育している。また1956年の大地震以降は離島も多かった。

その後フランス人旅行家が世界に景勝地としれマスコミで紹介し、クルーズブームとあいまって人気が高まった。
カルデラ側のほとんどの家が民宿かホテルを経営している。150ユーロから300ユーロくらい。シーズンオフは島の人口が大きく減る。
観光客が乗るのはラバ、ロバとウマの掛け合わせ。観光資源として利用されている。
わたしたちはまずサントリーニワイナリーにより、そこから見下ろす雄大な眺めを写真に収めた後、島の北の先端部のイアに向かう。

世界人気ランキング一位と言われる景勝地だ。白い壁と青い屋根の教会や民家がびっしりと軒を連ねている。

0905_2.jpg

 

バスを降りてから細い道を歩くとさまざまな土産物店がずらりと並ぶ。
有料トイレは二か所、50セントだが、だからきれいなトイレというわけでもなく、長蛇の列。どこでもこんな苦労がない日本の良さを思い知らされる。
白い壁と青い屋根そして何より天気に恵まれて青い空とエーゲ海の海が街並みの美しさを引き立てている。

 

かわいらしい教会がいくつもあり、中国人と思われるカップルが結婚式用の前撮り写真撮影に来ていた。
道の先端部分に要塞がありそこが最高の絶景ポイントになっている。
小道を引き返しながら土産物の豆菓子、絵葉書、などを買ってバスに戻る。
およそ30分で中部のフィラへ。ここはロープウェイで港と直結する島の中心地。

0905_3.jpgケーブルカー

 

ロープウェイの道までを絶景ポイントで海と停泊しているコスタファシノーサ号など大型船を入れた写真を撮りながら土産物店を歩く。
途中観光会社社長夫人が経営している宝石店に立ち寄りディスカウントしてもらいネックレスを買う人もいた。
ロープウェイの行列でようやく一時間かけて船に戻りランチ。
午後は日光浴、と昼寝でのんびり過ごす。

 

0905_4.jpg船から見たサントリーニ島

 

16時からセミナー②
19時から特別レストラン、クラブ・ファシノーサでの夕食。25ユーロ追加だが、おおむね好評。
ただしここでも水はもちろんコーヒーさえつかないことに不満の声も出た。
21時45分。今日こそショーへ。
半分うつらうつらだったが、最後まで音楽&ダンスショーを見終えた。
部屋に戻るとすぐに熟睡。

 

クルーズ日記④ ミコノス島

2014年9月 9日

5日目 9月4日(木) セミナー①~ ミコノス島 晴れ30度

 

2時半起床、日記つくり。
7時半に朝食、また部屋で寝てしまう。10時から第1回のセミナーをデッキ4のビリディアナ会議室で行う。
ベニスの起こりと通商国家としての地の利を、近江商人を例に話す。
「リンダ ひばり 水前寺」も紹介。
そのあと「東京モーレックス坩堝」「岩堀建設」「三球電機製作所」「テックササキ」と4社のスピーチ。
11時45分から古市氏によるコスタファシノーサの紹介があった。

14時45分に集合、ミコノス島沖合に停泊。
テンダーボートで上陸。白い街並みが青空に映えて美しい。
ミコノス島はエーゲ海中部・キクラデス諸島に属するギリシャ領の島。
人口約6200人。エーゲ海の代表的な観光地の一つでサントリーニ島とともに人気がある。
面積は86km2で、標高は最高地点で364m。地質は主に花崗岩。水源は少なく、海水の淡水化によって生活用水の需要に応えている。
紀元前11世紀初頭よりイオニア人が住みついたとされる。
ギリシア神話ではゼウスとギガースの戦いの地として知られ、島の名はアポロンの孫・ミコノスの名より取ったとされる。
古代では2kmに隣接している栄えた島デロス島への農産物供給地及びデロス人の休息地として栄えた。
今日ではミコノス島は世界でも人気の高い有数の観光地、リゾート地で世界中より観光客が集まり多くの有名人もここに別荘を構え、小道での散歩や高価なレストランでの食事をしているところが目撃される。
ギリシャでも富裕層が家や別荘を所有する場所柄、土地や建物は大変高価である。
過度なリゾート開発を防止するため、伝統的な建築を保存する地域も決められている。

夕食は島でエビやイカ、タコなどを食べ夕陽を見てから船に戻る。

クルーズ日記③ コルフ島 キッチンツアーなど

2014年9月 9日

4日目 9月3日(水) コルフ島(ケルキラ島)  晴れ32度

時差1時間時計を進める。
3時から部屋で仕事。
6時半には朝食へ。今日は8時に下船するので皆朝食が早い。
そこそこに、甲板に出ると、7時過ぎに島影から太陽が昇り始める。今日は晴天、地中海の美しい海原に島々が点在している。すでにコルフ島入港寸前で船は待機中だ。
ケルキラ島は英語ではコルフ島。イオニア海に浮かぶ人口12万の島だ。ギリシャ本土とイタリア南部を結ぶ線上にあり、アドリア海湾口を押さえるこの島は、要衝として歴史上しばしば争奪の舞台となった。中心都市ケルキラ(コルフ)市はイオニア諸島地方の首府であり、その旧市街は世界遺産に登録されている。ギリシャ語では「山並み」「頂き」(crests / peaks) を意味する言葉からコリュファイと呼ばれた。東ローマ帝国のもとではこれが転じ、「頂きの都市」(city of the peaks) を意味するコリフォー となった。ヴェネツィア共和国がこの島を統治すると、コルフ (Corfù) と呼んだ。この名称が英語に引き継がれ、この島は英語ではもっぱら「コルフ島」と呼ばれている。
鎌に喩えられる形状を持つ南北に長い島で、島の西北端から東南端までは約60km。島の面積は 592.877 km² で、イオニア諸島ではケファロニア島に次いで2番目に広い面積を持つ。海岸線の総延長は 217 km。大陸(バルカン半島)との間はケルキラ海峡(コルフ海峡)によって隔てられている。
中世から地中海の交通の要所として栄え、かつてイギリスやヴェネチアに統治されていたため、ギリシャとヨーロッパの文化が共存する独特のムードをもっている。水に恵まれたこの島はオリーブの産地として高品質のオリーブオイルがイタリアに輸出されている。旧市街にはフランス風の通りがあり、またベネチア風の家並み、イギリス風の建物、またギリシャ聖教の教会と町全体が不思議な調和を見せている。
古代から19世紀にいたるまで要衝として重要な役割を果たした。今も8世紀ビザンティン時代の旧要塞や、ヴェネティア時代の新要塞、あるいはカノニと言われる地にはフランス軍の大砲が残る。
コザカイさん、ナウシカさんの案内で、バスで観光する。
まずアヒリオン宮殿。1891年にオーストリア帝国ハプスブルク家の皇妃エリザベートによって建てられたフィレンツェ風ルネッサンス様式の宮殿へ。エリザベートが好きだったギリシアの英雄アキレウスからこの名前が付いた。エリザベートは窮屈な生活から逃れるために療養を名目にたびたびここを訪れていた。敬愛するプラトンやホメロス、シェークスピアなどの彫像がある。この宮殿のためにこの島にはヨーロッパのほとんどの国の領事館がある。エリザベートは1837~1898年の60年の生涯最後に反政府主義者に暗殺される前の年までここに来ていた。その後、この宮殿はドイツ皇帝カイザルの所有にもなる。

 

★ギリシャ経済は2004年のオリンピックの後低迷、そこにリーマンショック。暴動や治安悪化で観光客激減、経済は回復しているとは言うが、失業率は25歳以下で55%、全体で26%もある。通貨不安から不動産取得をみんな考えている。政府は不動産税をかけており、他のヨーロッパ諸国より厳しい徴税。消費税は23%(食品は16%)

■パレオ・フルリオ (Old Fortress)
べネチア時代の旧要塞。海に突き出たかたちでたてられており、スピアナダ公園とは運河で隔てられ、橋を渡って行き来することができる。城塞に沿った遊歩道の頂上には十字架が立ち、ここから旧市街地が一望できる。

■ネオ・フルリオ (New Fortress)
1577年1588年にかけて建てられた、同じくベネチア時代の新しい要塞。旧市街地の西側、フェリー乗り場の正面にそびえるグレー一色の建物。内部は当時使われていた通路や部屋が残っている。

■考古学博物館 (Archaeological Museum)
先史時代からローマ期にかけての島内の各地から発掘した品が展示されている。建物は2階建てで、1階にはアルカイック後期からローマ期にかけてのブロンズ像の展示室などがある。2階の「ゴルゴンのレリーフ」(紀元前6世紀ごろ)は有名。
ケルキラ島のリストン通りから始まる旧市街を歩いて観光し、旧要塞の前でバスに乗り港へ。コスタファシノーサに乗ってきた観光客で広場周辺はいっぱい。クルーズの観光潜在力を感じさせるが、昼ごはんは船の中、これではやはりお金が落ちない。安い土産物以外に何を売るのか知恵が求められる。午後はしばしの休憩時間。

 

★16時より古市臣吾氏による「キッチンツアー」
コスタファシノーサには1100人の食事スタッフが在籍し、一日2万食を作っている。
シフトで24時間勤務、乗船中休みはない。シェフ、2等調理士、3等調理士の三階級、一日中パンを焼く人、デザートを作る人、野菜を切る人、肉を焼く人など職場が決まっている。インド人、フィリピン人、など多国籍。
インベントリーオフィサーが食材調達を指示する。ガスがない、電熱器のみ、ボイラーの余熱を利用する。厨房は広く工場のよう、ステンレスで覆われ清潔感がある。給仕配膳用に高速エスカレーターがある。

★18時から船長歓迎 ガラカクテルパーティー
船長イニャツィオ ジャルデイーナがオフィサーたちを紹介した。

★フォーマルのディナー 19時より 
終了後寝てしまった。

クルーズ日記② バーリ アルベロベッロ

2014年9月 9日

3日目 9月2日(火)  バーリ 雲のち晴れ 30度


2時起床。
まず「TODAY」と呼ぶ日本語船内新聞できょうの予定を確認、
さまざまなイベントのどれに参加するかを決める。
今日は13時イタリアのバーリ着だから、午前の過ごし方を決める。
朝食は7時、そのあとはプールサイドで読書をしながらここで行われるアクティビィを観察し、11時45分からスパの見学ツアーに参加し急いでランチをして下船しようと思う。

7時にビュッフェで朝食。
日の出とともに晴れてはきたが気温は低い。
水着に着替えて午前中はプールサイドで過ごそうと考えていたのだが、ちょっと残念。
デッキ9の室内プールからデッキ11の屋外のジャグジーに出たら太陽が顔をのぞかせたので入ってみる。イタリア半島と並行に進む景色を眺めながらの入浴は気持ちがいい。

140902_1.jpg バーリへ

11時45分から有料スパ施設見学ツアー。
眺めも良く雰囲気はいいが、果たして一週間パスを買うだけ来られるか疑問。
それにマッサージ料金が2万円くらいする。人件費とはいえちょっとためらう。
あわててビュッフェランチをかきこむ。というのも13時下船が迫っている。
外の景色はもうバーリ港。
アドリア海に面したイタリア南部の港だ。突然の豪雨が晴れてバーリは観光には最適。小林さんという日本人ガイドが待っていた。

140902_2.jpg アルベロベッロ

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バスで70分ほど、世界遺産アルベロベッロへ。
EATARYの看板発見、ガイドと交渉、帰りによることになる。
フリーウェイを降りて一般道に入ると オリーブの木が目立つ。
世界の16%の生産をこのプーリア州が占める。
オリーブオイルの生産は世界のベストスリーはスペイン、ギリシャ、イタリアだが、スペインが2種類だけなのに、イタリアは200種類もある。
木の幹を揺さぶったり、熊手のようなもので掻いてネットの上に実をおとし、実ごと油をしぼる。わずかな水で育つ、手がかからない。常緑樹で風が入らないとムシがわくので、2-3年に一回は枝を切る。枝を細くしておくと実を落とす時に揺さぶりやすい。
収穫は10月20日くらいから 1月末まで。オリーブオイルは早摘みと遅摘みで味が違う。
早摘みは10月~11月半ば、実が青く若くフルタート、しぼりたて。遅摘みはデリカート、12月末まで収穫。
現地では缶で買うのが一般的。
消費税は22%
プーリア州は全国の65%のブドウ生産、ワインの原材料と食用。
白い屋根掛けしてある葡萄畑は食用。屋根かけてないワイン用はポリフェノール高い。

★赤ワイン
プリミティーボ種
  原始的な 古くからある 収穫早い アルコール度高い
  まろやか カカオの香りがもどってくる 
ネグロアマーロ種
  黒い ここちよく 苦い
★白ワイン
シャルドネ種
ベルデ―カ種
道端にサボテン
イチジクのような実をつけている、これはウチワサボテンでキウイのような実は食べられる。とげがあるのでゴーグルのようなメガネと手袋で収穫する。
もいで一日くらい置くと種の多い洋梨、あるいはメロンのような味が。
イチジクもこのあたりの産物。天日干し、アーモンドを入れてオーブンへ。 
月桂樹で香りづけすると甘い栄養のあるお菓子になる。
夏の間雨がすくないとイチジクは甘い。

プーリア州は石灰の州
道端にも石積みの塀、上に乗れば崩れる。掘れば出てくる石灰で作ったのがトゥルリ、
もともとは農機具の倉庫や仮眠場所。
アルベロベッロ市は人口1万人。
「トゥルリ」と呼ばれる伝統的な家屋が約1500軒ある。白壁に円錐形の石積み屋根を載せたこの家屋は、16世紀から17世紀にかけて開拓のために集められた農民によって造られた。かつてこの地方に広く見られたトゥルリが多数現存し、住居や店舗として利用されている景観は貴重であり、世界遺産として登録された。地名の Alberobello は、「美しい樹」を意味する。世界遺産として登録されている地域は、土産店などがない「アイア・ピッコラ地区」と、土産店が並ぶ「モンティ地区」である。アイア・ピッコラ地区には1030軒、モンティ地区には590軒のトゥルッリが現存する。
農民の家は解体しやすいよう簡易に建設することが領主によって命じられていた。理由は課税対策である。伯爵は家屋の建築にあたってモルタルを使わない方法のみを認めたため、市街地にはトゥルリが広がった。ナポリ王国のスペイン人総督(ナポリ王は1700年までスペイン・ハプスブルク家が王位を継承し、ナポリに総督が派遣されていた)に納める税を逃れるため。新たな町の建設には王の認可が必要で、領主は王宮に税を納めなければならなかった。このため、取り壊しをしやすいような家屋を建てさせ、王の監督官が視察に来る際に領民に命じて取り壊させていた。石灰(漆喰)で仕上げた円筒形・長方形の家の上に、キノコのような形をした灰色のとんがり屋根が載っているのがトゥルリの特徴。
「トゥルリ」は「部屋一つ屋根一つ」といった意味、一つの部屋の上に一つの屋根がある。内部に玄関や廊下はなく、ドアは開けると直接部屋となる。モルタルなどの接合剤を使わずに石灰岩の切石を積み上げているのが特徴。特徴的な屋根も灰色の切石(スラブ)を積み上げたものである。屋根にはしばしば石灰で神話的・宗教的シンボルが描かれる。
白川村(日本・岐阜県)と2005年3月3日 姉妹友好協定調印。ともに住居集落が世界遺産に登録されている(白川村は1995年登録の「白川郷・五箇山の合掌造り集落」)。
モンティ地区で自由散策の後、ジャンボタクシーでバスへ。
バスで一時間、バーリの港近くにできた「EATARY」へ。ローソンの資本参加で、世界2号店が代官山へ、そして恵比須アトレや、日本橋三越新館、東京駅、東京ソラマチなどに出店している「EATARY」は本国よりも東京の方が知名度があるようだ。ガイドさえ知らなかった。入ってみるとおいてある商品は洗練され、日本以上に家庭用雑貨、調理器具まで幅広い品ぞろえだったが、いかんせん人の気配がしない。高所得で人口が多い日本やニューヨークに先に出て行ったのもわかる気がする。
17時半船に戻り、天候が回復したのでデッキで日光浴。甲板は鈴なり状態。
ディナーは牛込夫妻、井上、若松、金田、岩堀、内野さんのテーブル。
「コスモス会」勧誘で盛り上がる。アクロバットショー満席。
面白かったが眠くて途中で引き上げる。時計をあすからのギリシャのために1時間進めた。
23時就寝。

クルーズ日記①  成田からベニス出港まで

2014年9月 9日

1日目  8月31日(日) 成田出発 晴れ


140831_1.jpg 成田

スイス航空LX 161便 エアバス300。
定刻10時25分離陸。
ほぼ定刻15時50分に チューリッヒ空港到着。
通関後一度解散 チューリッヒはかなり強い雨。
9月は、スイスは天気悪いらしい。昨年のツアーを7月に設定してよかった。
乗継便 LX1664 ベニス行きは 定刻17時40分より30分遅れ。
19時15分くらいにベニス着。
こちらは晴天。
荷物をピックアップ後バスで空港から港へ
そこから水上タクシーでホテル・モナコ・グランドキャナルに直接接岸。
このアクセスには皆大喜び。
グランドキャナルホテルは4星のなかなか豪華なホテル。
ベニスは部屋が概してせまいが、ここは高級感がある。
何人かはチェックイン後に出かけたようだが、 私はネット接続しているうちに眠くなり23時くらいにベッドイン。
24時にサンマルコ広場で花火が上がるらしい。
大歓声がゆめのなかでこだました。
しかし実は、雷鳴で雨が降ったことが朝わかる。

140831_2_320.jpg ベニスの街並み

 


2日目  9月1日 (月) ヴェネチア 出港 雨のち曇り 22度

 

5時ごろ一度サンマルコ広場に行ってみるが、まだ真っ暗おまけに寒い。
雨も降っているのですぐに戻る。
7時、運河を眺めながらのビュッフェは気分がよかった。
特別なメニューはないがまあ満足。リンゴジュースが緑色でびっくりした。
8時から、雨の中だが10人ほどと散歩へ。
サン・マルコ寺院から迷路のような狭い細い石畳をくねりながら歩き、リアルト橋へ。

140901_1.jpg リアルト橋


船着き場は出勤する人でにぎわっていた。
写真撮影後ホテルに戻ろうとするが、道がわかりづらく何度も行きつ戻りつを繰り返した。
10時半、水上タクシー「ヴィポレット」で客船ターミナルへ。
20分ほどの間現地ガイドと話す。
ヴェネチア観光は伸びているが、ロシア、中国、韓国人が増えている。
中国人はお金を落とさない。中華料理を食べ、安いものを買いあさるとため息をつく。

かつてベニスは塩の商いで栄えたが、その倉庫の後を安藤忠雄氏が設計し博物館ができた。ちょうどベネチィア映画祭の時期だが、この時期には世界から大富豪がヨット(といっても大型クルーザー船)を乗り付けてやってくると話していた。
さて、見えてきた。
まるで巨大マンションのように見える二隻の大型客船。
一隻はアメリカの「セレブリティ」、そしてもう一隻が「コスタ・ファシノーサ」だ。

140901_2.jpg

「コスタ・ファシノーサ」は114500トン、定員3800人、乗組員は1100人を超えるという。全長290メートルのこの巨艦は2012年にできたばかりだ。
これだけの人が乗下船するのは一日仕事だ。
朝帰港した船の乗船手続きは正午頃から始まる。夕方までチェックインと荷物の詰め込み作業が続く。
私たちは13時くらいに船内に入りまずランチ。
ビュッフェは9階にある。
驚いたのは「GS世代」ばかりかと思っていたら若い夫婦や小さな子供が多いことだ。祖父母と三世代ももちろんだが、それだけでは説明がつかないくらいの多さなのだ。
14時くらいに部屋に行ってみる。セキュリティチェックをとおして荷物が届けられたのは16時近くだった。
15時半よりデッキ4の会議室でただ一人の日本人スタッフ古市臣吾氏のよる日本人向け説明会。
3800人の中で日本人は26人しかいないという。しかも団体は我々だけ。
説明会には小さな子どもがいる夫婦2組が参加していたが、ヨーロッパに駐在しているような印象だった。
船内の支払いに使うためコスタカードと呼ばれるキーカードにクレジット情報を入力。
自動登録機の前に行列ができる前に手続きを済まそうとするがこれが結構難しく添乗の金田さんに手伝ってもらう。
いちど部屋に引き上げてトランク整理を始めたところで、今度は避難訓練。
全員が救命胴衣着用でデッキ4に集まる。
イタリア語、英語、フランス語で説明するから結構時間がかかる。
そのあと救命胴衣を部屋に戻してデッキ12に上ると、人でいっぱい。
出港してベニスの街並みを眺める感動のシーンだった。
朝から歩いた街を高層階から見下ろすような眺めは素晴らしかった。

140901_3.jpg ベニス出港


そのあと一時間ほど最上デッキからワンフロアづつ降りながら、船内散策。
ジムや図書館、劇場などを確認した。部屋に戻るともう夕食時間だ。
今日はインフォーマルというのでジャケットとシャツでレストランへ。
イタリアンコースでサラダ、米といんげんのスープ、パスタ、メインは七面鳥、デザートはアイスクリームとフルーツを注文した。
毎日プリフィックスメニューから選べる。そして複数選択も構わないという。
あまりおいしいとは言い難かったが、まあ満足して2時間で終えた。
部屋に戻るとシャワーもせず寝てしまった。
劇場に行く元気もなかった。やはり気が抜けたか。

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