「西村晃のマーケティングの達人 大繁盛の法則」企業経営・売上アップのヒントを提供

西村晃の路地を曲がれば、もう旅人

第20回 11月 江戸の大土木工事を見にゆく

オリンピックでまた東京が大きく変貌しそうだ。
前回のオリンピックはもちろん関東大震災や東京大空襲、そして江戸時代も東京は絶えず大改造を繰り返してきた。
お茶ノ水橋から見下ろす神田川と中央線・総武線の眺め。


お茶の水橋

向うに聖橋、一瞬外気を嗅ぐ地下鉄丸ノ内線。
私が好きな東京の風景の一つだ。
近くの予備校に通った青春時代の思い出がよみがえる。
実はこの橋が結ぶ両岸の標高はほぼ同じ、もともとは地続きだった。
江戸城築城前に小石川・後楽園方向から日本橋にかけて流れていた平川という川は洪水被害が絶えず、これを人工水路により隅田川につなげたのがこの神田川だ。
この大工事で生じた大量の土砂が日比谷入り江の埋め立てに使われた。
この一大公共事業の目的はもう一つあった。
それは江戸城の守りである。
北側に大きく広がる本郷台地を敵が進軍してくると、もう江戸城は目と鼻の先となる。
これでは危険だ。
そこでこの人工の川をいわば堀と位置付けたわけである。
飯田橋駅付近の牛込見附から、西へは市ヶ谷、四谷、赤坂、虎ノ門と外堀を作り、この飯田橋以東の神田川そして隅田川で、城の守りは万全となる。
ちなみに川の内側を駿河台と呼ぶのは、徳川家の駿府城にいた旗本たちが屋敷を与えられたからだ。
川向うの本郷には現在の東京大学の地に加賀前田家がいた。
仮想敵への睨みも怠らなかった。
外堀通りを神田川沿いに水道橋方向へ歩く。
土手側に「神田上水懸樋跡」の碑がある。


神田上水懸樋の碑

江戸が100万人を超える当時世界最大の人口を抱えられた理由の一つに上水道の普及がある。
井の頭公園から湧き出る水を源とする神田上水は、ここで木の樋により神田川をまたぎ市中に水を配していた。
近くにある東京都水道歴史館に詳しい解説がある。
ちなみにこれが水道橋の名の由来である。


東京都水道歴史館 1

東京都水道歴史館 2

その水道橋の駅を過ぎ、東京ドーム近くの神田川岸に市兵衛河岸跡の碑がある。
この先の飯田橋付近の神楽河岸とともに、隅田川から回ってきた船の荷降ろしの場所として賑わった。
大都市を維持するためには食料品などの物流も欠かせない。
特に飯田橋界隈は明治以降、甲武鉄道の駅もできて陸路と水路の結節点となり、神楽坂花柳界の繁栄をもたらした。
揚場町や、荷おろし作業員の意味の軽子坂といった地名に歴史を感じることができる。

大土木工事は大名たちの忠誠の踏み絵でもあり、また平和時における失業対策という意味もあった。
その費用負担と経済効果を天秤で測りながら槌音が響くのは今も昔も変わらない。


当時の懸樋